生きる力のわきでるところ
欲求の言い換え
モチベーションなる流行語の言い換え
心の背景には自己肯定
自己肯定の背景には時代と地域肯定
時代と地域肯定の背景には全体を包むはみ出されないための雰囲気
心
はみ出されないための雰囲気にしがみつく力のわきでるところ
そんな力がわきでるとことに失望する
力がわきでなくなる
鬱はそういうものかも
ならば鬱はよりまとも
心
鬱ならまだ健康
失望するしかない力がわきでるか
そんな力ならわきでないようにするか
そんな心を捨ててしまうか
捨ててしまおう
生きる力は心からもらわなくてもいい
生きる力は愛からもらう
生きる力はわたしとあなたの
わたしとみんなの
みんなとみんなの
間の愛からもらう
愛
生きるちからのわきでるところ
赦しの言い換え
救いの言い換え
十字架と復活の言い換え
創造と希望の言い換え
愛の背景にはキリスト
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教会の礼拝で
ひとりのおばちゃんに
声をかけてもらった
いつもあなたのこと祈ってる。
あなたのこと愛してるよ。
身体の中心の中の中心に
力がみなぎるのを
瞬時に覚えた。
生きる力が
瞬時にわいた。
神が働くって
こういうことなんだと
信じた。
これはけっしておおげさではない。
ところが
納豆が店頭から消えた。
「あるある大辞典」というテレビ番組で
ダイエット効果が抜群と放送されたからだとのこと。
スーパーをはしごして
なんとか買ってくる。
「ごめん、しばらくは一回一パックにして」
いつもは数パック食べる息子たちは不満げ。
おそらくパワーもいつものように出ないのだと思う。
でもって
すごいニュースが飛び込んできた。
「あるある・・・」のデータは捏造だったとのこと。
番組終了もありうるとのこと。
人の気をひくためにデータを捏造する。
タウン・ミーティングしかり。
イラク戦争もそう。
おそらく
世界のすべてが
マーケティング手法
すなわち
金と人間をどれだけ味方につけるかという方法で考えられる今、
みんな
ありとあらゆることを捏造するのだろう。
ある大きな教会が礼拝出席者を水増ししていたという事実もある。
ほとんどの新興宗教が信者数水増しをしてることは周知の事実。
テレビの報道における
たとえば政治のコメントも
そういうマーケティング的な暴露話のみ。
教育基本法の中身とか歴史とかは語られず
ただ、与野党間の調整方法とか、人数あわせの方法とか・・・
でもって
まあ
納豆が店頭に並んでくれそうで
さみしいながら
うれしい。。。
金属と金属のこすれる音は
街の疲労か
経済社会の軋みか
ワゴン車がならぶ
フロントガラスが
業種と給料の書かれた紙で埋まる
前方を覆われた車は
隠された街か
労働者の閉塞か
アスファルトをうちまくる
数千人の労働者の
足音の
ひとつひとつの響きの違いを
耳の奥が拾おうとする
希望を拾いたいのか
いのちを拾いたいのか
出発するワゴン車から発せられる
排気ガスに
乗車した労働者の熱さを見つつ
堅いボディに
寂しさを見る
生きている
この一言以外
僕は発せない
午前五時の釜ヶ崎
仕事だしの瞬間
*****************
はじめて午前五時の釜ヶ崎を見ました。
先週水曜日。
胸突き破られる思いを今なお抱きつつ・・・
1928年6月3日 バルセロナでの説教より
まず聖書
「わたしが来たのは
地上に火を投ずるためである。
その火がすでに燃えていたらと
どんなに願っていることか」
**************************
この火は宗教の熱狂主義という火なのか
一世紀以上にもなるほどに長く
熱狂の火は燃えている
その火は人間の犠牲を求めた
その火は聖なるものを破壊した
その火は嵐となって世界を覆う
その火は嵐となって荒れ狂い世界を破壊する
その火はイエス・キリストの名において殺戮と破壊を行う
これが
イエス・キリストが切望している火であろうか
神の霊は火のごとくやってくる
火の力をもって人間を支配する
神の霊は私たちを安定した生活から引っ張り出す
私たちはその火に怯え叫びだすだろう
「救ってくれるものから救ってください!」
その地点で私たちは燃え始める
火を消すために何を持ってきてもそれは消えない
火を消すためには最も価値あると思っている道徳や宗教まで持ってくるのに
火は消えない
神の火は私たちのすべての人間による栄光を焼き尽くす
私たちは自分の所有物が焼き尽くされないよう
なお守りなお抵抗する
しかしその中で
悲しみ嘆きつつ失われたものを確認するよりも前に
わたしたちは理解できなかったものを理解する
私たちの中で燃え盛っている火が
永遠の神の火の一部であることを
だからそうなのだ
私たちはその光で明るく輝いているのだ
「人よ 照らされよ たいまつのように」
偉大なドイツの詩人は言った
闇に沈むこの世界の只中に輝く
神の火
神の明快さ
神の光のたいまつ
他者が自らの光を灯すことができるたいまつ
神の栄光の麗しさとして燃えるたいまつ
イエスは私たちからこのたいまつをつくろうとする
わたしたちは自分の栄光には鈍くさせられる
わたしたちは照らされる
わたしたちは暖められる
そうだ
神は暖めるのだ
ここにキリストの愛の賛歌がはじまる
神の霊
すなわち
神の火がわたしたちの中にあるならば
わたしたちの中には
世界を克服する力がある
世界を更新する力がある
すなわち
中から生み出される愛がある
そのとき神の火は
わたしたちの中で燃えるのではなく
この世界の只中で輝き
この世界の凍っている心を暖め
魂の周りの悲痛を取り除き
隣人たちを神の栄光と幸福へと導く
キリストの愛がわたしたちに押し迫るとき
もはや世界は冷たくなりえない
神の霊が地上に現れ
イエスが火を地上に投げるとき
私たちは再び麗しい神の栄光を語り
これらを思うときには
すべてが暖かくなっているだろう
脈が聞こえる
いっかいいっかい
同じ音になりえない
そういう生が聞こえる
小さな関節も大きな間接も
筋肉にひっぱられる
いっかいいっかい
同じ動きになりえない
そういう生がひっぱられる
足を踏み出す
地を踏みしめる
いっぽいっぽ
おなじ足跡になりえない
そういう生が憶えられる
同じ音
同じ動き
同じ足跡になったら
注意せよ
生が
消える
どちらもテレビから流れてくるメロディ
ひとつは
「はじめてのおつかい」のテーマ
幼い子どもの懸命なコトバをあらわすようなメロディで
幼い子どもの懸命な行動のひとつひとつを確認するようなメロディで
とても幸せになって
楽しくなって笑ってしまうメロディで
なのに
笑いながら涙も出てしまうメロディで
決して気分を楽しいほうへ誘導するメロディでも
涙をこぼれさせるほうへ誘導するメロディでもなく
そんな演出はなく
淡々と
幸せで涙がでる
もうひとつは
「吉本新喜劇」のテーマ
これは一言でいいたい。
これほどまでに生活の実体があふれるメロディはあるだろうか・・・
とても健康なメロディだと思う・・・
朝日新聞朝刊一面の
「ロストジェネレーション-25~35才」
・・・社会不信 愛国の道へ・・・
を読んで。。。
「日本」という存在が
絶対的なものとしてあらわれるのは
いかなるときか?
ふたりのことばが紹介されている。
杉浦学さん(29歳、総合研究大学院大学在学)
バブル崩壊、阪神大震災、地下鉄サリン事件を経て
その中で、神戸にボランティアに行き、
勤めていた大手重工メーカーの業績悪化を経験し、
「脅威がこんなに身近にあるのに
会社も政治も信頼できない。
それでも
日本という国は確かにあって
私たちはそこで暮している。」
と語る・・・
そして「日本」が守るべき愛するべき存在となっていったとのこと
そして予備自衛官の訓練を志願し受けている・・・
山神輝久さん(28歳、ヒップホップグループで音楽活動をする)
「信頼できるのは
仲間、家族、地元、
それと日本だけ
おれが知っているかぎり
社会はどんどん崩れてってる
信じられないものばっかりだ」
鍵はどうも「信じるものがほしい」
ということのようだ。
身の回りに信じるものがなくなるときに
突然
「日本」
があらわれるようだ。
これは疑いもなく宗教現象だ。
愛国の問題は宗教として論じられる必要がある。
オウムを分析したように・・・
この突如あらわれる「日本」。
宗教的に大切なのは、それの具体性。
つまり「日本」とは何か。
それを伝統とか文化という抽象的な言葉で処理するのではなく
具体的に何か?
を語りきる必要がある。
そして歴史ある宗教は、
「神」は何か、誰か、いつか、どこか、という問いに応え続けている。
それを専門用語では教義という。
しかし、この教義のない宗教が日本にはある。
それは神道。
すると、
すべてを信じられないときにあらわれる神だけど
その神の中身がなんにでも化けられるものとなっている。
だから人間がそれぞれ自由にイメージしてよいものとして
神が存在しているのが神道だ。
この神と「日本」という存在の性質が似ている。
具体性がなく、何にでも化けるもの
人間の都合でどのようにも言える伝統、文化。
そして中身がないから
実は宗教の現象でありつつ
しかし宗教の段階になりえないもの
だからオウムと似ている・・・
しかしこれはキリスト教会も反省させられること・・・
歴史を重ねている教義と対話することなく
自分の中の宗教現象を絶対化することはキリスト教徒にも多い・・・
そして自分の中でそれを絶対的存在とすると
自分の都合で神をつくりあげることができる。
そのつくりあげたものを「原理」にする。
それを「原理主義」と呼ぶ。
愛国の問題は、宗教の原理主義に分類されるだろう・・・
そして
この原理主義でもって
教育基本法が変わり
憲法も変わろうとしている・・・
つまり
原理主義という宗教になりきれないレベルの
宗教国家になりたいということで・・・
これではオウムの目指していたことと
規模の大小はあれ
本質はかわらないのではないか・・・
つまり
抵抗を放棄して
みんなにおだやかに接する
賢さから解放されたい
謙遜でありたい
つまり
心貧しくあることなく
欲のゆえに相手を持ちあげる
知恵から解放されたい
兄ちゃん母ちゃん父ちゃんの
こんわく顔の奥の
平安の地平が
あるんです
いちばん弱いのが中心です
せかいの中のちいさな家族の
こんわく顔の奥の
平安の地平が
プロテストなんです
いちばん強いのが中心はいやです
そんなせかいはいんちきです
あけましておめでとうございます。
だいぶ更新してなくてすみませんでした。
だいぶ前に
我が家の第四子(1歳8ヶ月)が
わたしがお兄ちゃんたちをおこっていると
ニコニコしながら足元にやってきて
おこっているのがアホらしくなるということを書きましたが・・・
偶然ではなかったようです。。。
昨今コトバを発するようになって
また様々な行動がとれるようになって
こんなんなってます。
わたしがお兄ちゃんの誰かをおこっていると
「パパ。パパ。パパ。」
とやってきて
ニコニコしながら首をかしげつつ
「はほはほひほはほ」
とわたしに話しかけてきます。
で、
おこるのがアホらしくなって
みんなでニコニコすると
今度は
さっきまでおこられていたお兄ちゃんのところへいって
あたまをなでてあげて
自分のおもちゃを貸してあげたりします。
おそるべし
いったいどうなってるのか????